EU-OSHA(欧州労働安全衛生機関)が2026年からの新たな重点キャンペーンとして「心理社会的リスクとメンタルヘルス」を掲げていることをご存知でしょうか。EU-OSHA戦略2026-2028では、従来の物理的な労働災害防止に加え、職場のストレスやハラスメントといった心理社会的リスクへの対応が中核テーマとして位置づけられています。デジタル化やグリーン移行(脱炭素化)による働き方の急速な変化を背景に、EUは労働安全衛生の枠組みを大きく転換しようとしています。本記事では、EU-OSHAの最新戦略の全体像と、日本の労働安全衛生政策への示唆を解説します。
この記事でわかること
- EU-OSHA(欧州労働安全衛生機関)の役割と最新の戦略的方向性
- 2026-2028年重点キャンペーン「心理社会的リスクとメンタルヘルス」の具体的内容
- EU戦略フレームワーク2021-2027が目指す労働安全衛生の将来像
- デジタル化・グリーン移行が労働安全衛生に与える影響
- 日本のストレスチェック制度とEUの心理社会的リスク対策の比較
EU-OSHA戦略2026の背景と機関の概要
EU-OSHAとは何か
EU-OSHA(European Agency for Safety and Health at Work:欧州労働安全衛生機関)は、1994年に設立されたEUの専門機関で、本部をスペイン・ビルバオに置いています。EU加盟27カ国に加え、EEA(欧州経済領域)諸国や候補国を含む約30カ国の労働安全衛生に関する情報収集・調査研究・啓発活動を担う組織です。
EU-OSHAの主要な役割は以下のとおりです。
- エビデンスの集約: 欧州規模の調査・研究を実施し、各国の政策立案に必要なデータを提供する
- 啓発キャンペーンの展開: 「Healthy Workplaces(健康な職場)」キャンペーンを2年ごとに実施し、特定テーマへの関心を高める
- 好事例の共有: 各国の優良事例を収集・公開し、実践的な改善を促進する
- フォーサイト活動: 労働安全衛生の将来的なリスクを予測し、先手を打つための提言を行う
EU-OSHAは直接的な法規制を行う機関ではありませんが、その調査研究と政策提言はEU指令の策定に大きな影響を与えており、欧州の労働安全衛生政策を実質的に方向づける存在と言えます。
なぜ今「心理社会的リスク」なのか
EU-OSHAの調査「ESENER-3(第3回欧州企業労働安全衛生調査、2024年)」によると、EU企業の約44%が「気難しい顧客・患者・生徒への対応」を職場の心理社会的リスク要因として報告しており、「時間的プレッシャー」(46%)と並んで上位を占めています。さらに、パンデミック以降、燃え尽き症候群(バーンアウト)やテレワークにおける孤立感など、新たな心理社会的課題が急速に顕在化しました。
欧州委員会が2021年に策定した「EU労働安全衛生戦略フレームワーク2021-2027」においても、心理社会的リスクへの対応は3つの重点目標の1つとして明記されています。こうした政策的な流れと現場のニーズが合致する形で、2026-2028年のキャンペーンテーマが決定されたのです。
2026-2028年キャンペーン「心理社会的リスクとメンタルヘルス」の内容
Healthy Workplacesキャンペーンの位置づけ
EU-OSHAは2000年から「Healthy Workplaces(健康な職場)」キャンペーンを2年周期で実施してきました。過去のキャンペーンテーマを振り返ると、EUの労働安全衛生政策の変遷が見えてきます。
| 期間 | キャンペーンテーマ | 重点領域 |
|---|---|---|
| 2018-2019 | 危険物質の管理 | 化学物質リスク |
| 2020-2022 | 筋骨格系障害の予防 | 身体的負荷 |
| 2023-2025 | デジタル時代の安全と健康 | デジタル化対応 |
| 2026-2028 | 心理社会的リスクとメンタルヘルス | 心理社会的リスク |
注目すべきは、物理的・化学的なハザードから、デジタル化への対応を経て、心理社会的リスクという「目に見えにくいリスク」へと重点が移行している点です。2026-2028年のキャンペーンは、この流れの集大成とも言える位置づけです。
キャンペーンの具体的な焦点
2026-2028年キャンペーンは、以下の領域を重点的に扱うことが示されています。
1. 職場のストレス要因の特定と管理
長時間労働、高い仕事要求、低い裁量権、不十分な社会的支援といった古典的なストレスモデル(Karasekの要求-コントロールモデル等)に基づくリスク要因の体系的な評価と管理が求められます。特に立ち仕事の現場では、身体的負荷と心理的負荷が複合的に作用するケースが多く、統合的なリスクアセスメントの重要性が強調されています。
2. ハラスメント・暴力の防止
顧客や利用者からの暴言・暴力(第三者暴力)、職場内のいじめ・ハラスメントへの対策が重要テーマとなっています。小売業、医療・介護、飲食業など対人サービス業に従事する立ち仕事の労働者は、こうしたリスクに特にさらされやすいとされています。
3. デジタル化に伴う新たな心理社会的リスク
アルゴリズムによる業務管理、常時接続(always-on)文化、AIによる監視技術の普及など、デジタル技術がもたらす新種のストレス要因への対応も重要な柱です。EU-OSHAは前回キャンペーン(2023-2025年)の知見を活かし、デジタル環境下での心理社会的リスク管理の実践的なガイダンスを提供する計画です。
4. メンタルヘルスの積極的な促進
リスクの除去・低減にとどまらず、ウェルビーイング(幸福感)の向上や職場のメンタルヘルスリテラシーの醸成といったポジティブなアプローチも推進されます。職場のメンタルヘルス・ファーストエイド研修や、復職支援プログラムの普及が含まれる見込みです。
EU戦略フレームワーク2021-2027と心理社会的リスク
戦略フレームワークの3つの柱
欧州委員会が2021年6月に採択した「EU労働安全衛生戦略フレームワーク2021-2027」は、EU全体の労働安全衛生政策の方向性を定める重要文書です。以下の3つの主要目標を掲げています。
- 変化の先取り(Anticipating change): デジタル化・グリーン移行・人口構造変化に対応した安全衛生の枠組み整備
- 予防の強化(Improving prevention): 労働災害と職業病のさらなる減少、特にがん・心理社会的リスクへの対応
- 備えの充実(Increasing preparedness): パンデミック等の危機への対応力強化
このうち心理社会的リスクは「予防の強化」の柱の中核課題として位置づけられており、欧州委員会は加盟各国に対し、心理社会的リスクに関するリスクアセスメントの義務化や、職場のメンタルヘルス対策の法制化を求めています。
デジタル化・グリーン移行がもたらす新たなリスク
EU戦略フレームワークが特に注目しているのは、デジタル化とグリーン移行(脱炭素への転換)という2つのメガトレンドが労働安全衛生に与える影響です。
デジタル化の影響:
- プラットフォーム労働(ギグワーク)の拡大による雇用関係の曖昧化と安全衛生管理の空白
- AI・アルゴリズムによる作業ペースの管理が労働者のストレスを増大させるリスク
- リモートワークの普及に伴う「つながらない権利(right to disconnect)」の必要性
グリーン移行の影響:
- 再生可能エネルギー分野(風力発電設備の設置・保守など)における高所作業・重量物取扱いの増加
- 建築物の断熱改修工事に伴う化学物質曝露リスク
- 電気自動車用バッテリー製造における新たな化学的・物理的リスク
これらの変化は、立ち仕事の現場にも直接的な影響を及ぼします。例えば、製造業のデジタル化に伴う作業ペースの変化や、グリーン産業における新たな立位作業の増加などが想定されます。EU-OSHAはこうした「移行期のリスク(transitional risks)」への先制的な対応を各国に促しています。
日本のストレスチェック制度との比較
EUと日本のアプローチの違い
EUの心理社会的リスク対策と日本のストレスチェック制度を比較すると、基本的な枠組みに大きな違いがあることがわかります。
| 比較項目 | EU(EU-OSHA推奨) | 日本(ストレスチェック制度) |
|---|---|---|
| 法的根拠 | EU枠組み指令89/391/EEC(全リスク対象) | 労働安全衛生法第66条の10(2015年施行) |
| 対象 | 全事業場(規模問わず) | 従業員50人以上の事業場(50人未満は努力義務)※ |
| 基本アプローチ | 組織レベルのリスクアセスメント | 個人レベルのストレス調査 |
| 評価対象 | 作業内容・組織構造・人間関係等の環境要因 | 個人のストレス反応・原因・周囲のサポート |
| 改善義務 | リスクの除去・低減が法的義務 | 集団分析に基づく職場改善は努力義務 |
| カバー範囲 | ハラスメント・暴力・長時間労働等を包括 | 主にストレス反応のスクリーニング |
※日本では2024年の労働安全衛生法改正により、従業員50人未満の事業場にもストレスチェック実施が義務化される方針が示されています。
EUアプローチからの示唆
最も重要な違いは、EUが「組織・環境を変える」ことを基本とするのに対し、日本のストレスチェック制度は「個人のストレスを把握する」ことに主眼を置いている点です。
EUのアプローチでは、心理社会的リスクを物理的リスク(騒音、化学物質等)と同列に扱い、リスクアセスメントの一環として組織的に評価・改善する義務を使用者に課しています。例えば、「作業負荷が高すぎる」と評価された場合、個人の対処能力を高めるのではなく、業務量の調整や人員配置の見直しといった組織的な対策が求められます。
一方、日本のストレスチェック制度は、個人のストレス状態を「気づき」の機会として把握し、高ストレス者には医師面接を提供するという個人ベースの枠組みが中心です。集団分析による職場改善は努力義務にとどまっており、組織的なリスクアセスメントとしての実効性には課題が残ると指摘されています。
立ち仕事の現場を例に考えると、EUのアプローチでは「立ち仕事による身体的負荷が心理的ストレスを増大させている」という環境要因に着目し、作業姿勢の改善、休憩スペースの整備、アシストデバイスの導入といった組織的対策が優先されます。こうした統合的な視点は、日本の労働安全衛生政策にも大きな示唆を与えるものです。