医療従事者の筋骨格系障害(MSD: Musculoskeletal Disorders)は、医療施設における最も深刻な職業健康リスクの一つです。看護師や介護職は、患者の移動介助や長時間の立位作業など、身体的負担の大きい業務を日常的に行っています。

パキスタン・ラホールの医療施設で実施された調査研究では、医療従事者の76.5%が筋肉痛や捻挫を経験していることが報告されました。本記事では、この研究をもとに医療施設における人間工学的リスクの実態と、筋骨格系障害の予防に向けた示唆を解説します。

この記事でわかること

  • 医療施設に潜む4種類の職業健康リスクとその発生率
  • 医療従事者の筋骨格系障害(MSD)の身体部位別の実態
  • MSD発症リスクを高める作業要因(患者移動・長時間立位・不良姿勢)
  • 研究結果に基づく職場改善策とエルゴノミクス対策の方向性

医療従事者の職業健康リスクが注目される背景

医療施設は患者の命を守る場であると同時に、そこで働く医療従事者にとっては多様な職業健康リスクが存在する職場でもあります。WHO(世界保健機関)やNIOSH(米国国立労働安全衛生研究所)は、医療従事者が生物学的リスク(感染症)、化学的リスク、物理的リスクに加えて、人間工学的リスク(エルゴノミクス・ハザード) にも高い頻度でさらされていることを繰り返し指摘してきました。

特に看護師や介護職においては、患者の持ち上げ・移動介助が日常業務の一部を占めており、腰部への負担が極めて大きくなります。OSHA(米国労働安全衛生局)のデータによれば、看護助手の筋骨格系障害の発生率は全産業平均を大きく上回っています。

しかし、多くの医療施設では感染対策や針刺し事故防止に対策の重点が置かれ、人間工学的リスクへの対策が後回しになっているのが現状です。この研究は、人間工学的ハザードが医療従事者のMSDにどの程度影響しているかを定量的に明らかにしようとしたものです。

研究の概要

研究の目的

本研究は、医療施設で働く従事者が直面する職業上の健康リスクを包括的に調査し、特に人間工学的リスクと筋骨格系障害(MSD)の関連を明らかにすることを目的としています。

対象と方法

パキスタン・ラホール市内にある5つの医療施設で働く200名の医療従事者を対象に、質問票による調査が実施されました。調査では、職業上の健康・安全リスク(OH&S: Occupational Health and Safety)への曝露状況を、人間工学的リスク・生物学的リスク・物理的リスク・心理社会的リスクの4領域にわたって評価しました。

対象者には看護師、介護士、技師、事務職員などが含まれ、各職種における身体的・心理的負担の実態が横断的に分析されています。

主な研究結果

4つの職業健康リスクとその発生率

調査の結果、医療従事者は複数の職業健康リスクに同時にさらされている実態が明らかになりました。以下は、各リスク領域における主な報告項目と発生率です。

リスク領域主な報告項目発生率
人間工学的リスク筋肉痛・捻挫76.5%
腰・手首・首の痛み56.0%
過度な筋肉の伸展67.5%
曲げ・ねじり動作55.5%
生物学的リスク感染症72.0%
切り傷・裂傷69.0%
物理的リスク転倒・滑り65.0%
高騒音環境64.0%
心理社会的リスクストレス77.0%
職場暴力68.5%

人間工学的リスクの報告率は全体的に非常に高い水準にあり、「筋肉痛・捻挫」は76.5%と4つのリスク領域の中でもトップクラスの数値を示しました。心理社会的リスクの「ストレス(77.0%)」と並び、医療従事者の大多数がこれらのリスクに直面していることがわかります。

筋骨格系障害(MSD)の身体部位別の実態

人間工学的リスクに起因する筋骨格系障害の実態も、身体部位別に詳しく調査されました。

身体部位発生率主な要因
56.0%繰り返し動作、無理な体勢での作業
46.5%患者の持ち上げ・移動介助
手首・指27.0%電子カルテ入力、注射・点滴操作
26.0%長時間立位、重量物の運搬

肩の痛みが56.0%で最多というのは注目に値します。看護業務では、患者のバイタルサイン測定やベッドサイドでの処置など、腕を上げた姿勢を維持する場面が多く、肩関節への反復的な負荷が蓄積しやすいと考えられます。

腰痛(46.5%) も依然として高い水準にあり、特に患者の持ち上げや移動介助の頻度が高い看護師・介護士で多く報告されています。欧米のNIOSHやOSHAの研究でも、看護師の腰痛は業界横断的に見て最も高い水準にあることが繰り返し報告されており、本研究の結果もそれと一致しています。

さらに、手首・指の痛み(27.0%) は電子カルテの普及に伴う新たな人間工学的課題を示唆しています。医療のデジタル化が進む中、キーボード入力やタッチパネル操作による上肢への負担は今後さらに注目される領域でしょう。

MSD発症リスクを高める作業要因

研究では、MSDの発症リスクを高める作業要因として以下の3つが特に指摘されています。

  • 長時間労働: 勤務時間が長いほど、筋骨格系への累積的な負荷が増大する
  • 複数施設での勤務: 異なる施設間を移動しながら働く医療従事者は、作業環境の変化に適応する必要があり、身体的ストレスが増す
  • 重い荷物の持ち運び: 患者の移動介助に加え、医療機器や備品の運搬も大きな負担となる

これらの要因が複合的に作用することで、MSDのリスクはさらに高まると考えられています。

この研究からわかること・実務への示唆

本研究の重要な知見は、医療施設において感染対策に比べて人間工学的リスクへの対策が不十分である、という点を明確にしたことです。多くの医療施設では生物学的リスクに対するプロトコルが整備されていますが、人間工学的リスクの管理は組織的な取り組みとして定着していないことが多いのが実情です。

研究結果をもとに、以下の対策が推奨されます。

姿勢教育とエルゴノミクス研修の実施: 患者の移動介助における正しいボディメカニクス(身体の使い方)を習得するための研修を定期的に行うことが重要です。特に、新人看護師や介護士に対する早期教育が予防効果を高めると考えられます。

作業環境の改善: 高さ調整が可能なベッドや作業台の導入、足元の衝撃を吸収する床材やマットの設置など、物理的環境の整備が推奨されます。看護師が患者移動に使用するリフトや移動補助具の導入も、腰部への負担軽減に効果的です。

勤務体制の見直し: 長時間の立位作業を避けるための交代制の工夫や、適切な休憩時間の確保が求められます。複数施設での勤務を行う場合は、移動負担も含めた労働時間管理が必要です。

包括的な職業健康管理プログラムの構築: 感染対策と同等の重要度で、人間工学的リスクの評価と管理を組織の安全衛生プログラムに組み込むことが不可欠です。

研究の限界と今後の展望

本研究にはいくつかの限界があります。まず、対象がパキスタン・ラホールの5施設200名に限られているため、結果の一般化には慎重な解釈が必要です。また、横断研究であるため、人間工学的リスクとMSDの因果関係を厳密に立証するものではありません。

さらに、質問票による自己報告に基づく調査であり、客観的な身体評価(REBA、OWASなどの姿勢評価ツール)は用いられていません。今後は、作業姿勢の客観的評価や介入研究(人間工学的改善策を導入した前後比較)によって、より具体的なエビデンスが蓄積されることが期待されます。

日本の医療施設においても、厚生労働省が「職場における腰痛予防対策指針」を改訂し、医療・介護分野における人力による患者移動の低減を推奨しています。パキスタンの調査結果と日本の状況には共通する課題が多く、本研究の知見は国内の医療現場にも十分に参考になるものです。

まとめ

医療施設における人間工学的リスクは、医療従事者の76.5%が筋肉痛・捻挫を経験するほど高い水準にあります。肩の痛み(56.0%)や腰痛(46.5%)をはじめとする筋骨格系障害は、患者の移動介助、長時間立位、不良姿勢といった作業要因の複合的な影響によって発症します。感染対策と同様に、人間工学的リスクへの組織的な対策を医療施設の安全衛生プログラムに組み込むことが、医療従事者の健康と医療の質を守る上で不可欠です。

参考文献

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  2. NIOSH (National Institute for Occupational Safety and Health), "Safe Patient Handling and Mobility (SPHM)," https://www.cdc.gov/niosh/topics/safepatient/ (2026年4月閲覧)
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  4. 厚生労働省, 「職場における腰痛予防対策指針」, 2013年改訂版. https://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000034et4-att/2r98520000034mtc.pdf (2026年4月閲覧)
  5. Davis KG, Kotowski SE, "Prevalence of Musculoskeletal Disorders for Nurses in Hospitals, Long-Term Care Facilities, and Home Health Care: A Comprehensive Review," Human Factors, 57(5), 754-792, 2015. DOI: 10.1177/0018720815581933. PMID: 25899249

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