ILO(国際労働機関:International Labour Organization)が定める労働安全衛生の国際基準と、日本の労働安全衛生法(安衛法)の関係をご存知でしょうか。2022年にILOが「安全で健康な労働環境」を労働における基本的原則及び権利に追加したことで、世界的に労働安全衛生への注目が一段と高まっています。さらに、2026年に施行される日本の安衛法改正も、こうした国際基準との整合性を意識した内容となっています。

本記事では、ILOの主要な労働安全衛生条約と日本の批准状況、そして日本の安衛法が国際基準とどのように対応しているかを、立ち仕事の現場にも関わるポイントを交えてわかりやすく解説します。

この記事でわかること

  • ILOの労働安全衛生関連条約(第155号・第161号・第187号)の概要と意義
  • 日本のILO条約批准状況と未批准の背景
  • 第155号条約の主要規定と日本の安衛法との対照
  • 2022年のILO「基本的原則及び権利」への安全衛生追加の意味
  • 2026年安衛法改正とILO基準の整合性

ILOの労働安全衛生条約の概要と国際労働基準

ILO(国際労働機関)は1919年の設立以来、労働者の安全と健康を守るための国際労働基準を数多く採択してきました。190を超えるILO条約のうち、労働安全衛生に直接関わる主要条約は以下の3つです。

第155号条約「職業上の安全及び健康に関する条約」(1981年)

第155号条約は、ILOの労働安全衛生分野において最も基本的かつ包括的な条約です。すべての経済活動部門の労働者を対象とし、国家レベルでの安全衛生政策の策定と実施を求めています。

主な規定内容は以下のとおりです。

  • 国家政策の策定(第4条):労働安全衛生に関する一貫した国家政策を、使用者団体・労働者団体と協議のうえ策定すること
  • 国家レベルでの行動(第8〜15条):法令の整備、執行機関の設置、労働者への情報提供・教育の実施
  • 企業レベルでの行動(第16〜21条):使用者による職場の安全衛生確保、労働者の協力と参加の促進
  • 職場環境の管理(第16条):機械・設備・作業工程が安全であることの確保

第161号条約「職業衛生機関に関する条約」(1985年)

第161号条約は、事業場における産業保健サービス(Occupational Health Services) の設置と運営に関する条約です。労働者の身体的・精神的健康を維持・促進するため、予防的機能を持つ保健サービスの整備を各国に求めています。

具体的には、以下の機能を含む産業保健サービスの実施が規定されています。

  • 職場における健康有害要因の特定と評価
  • 作業環境・作業条件の監視
  • 労働者の健康状態の監視(健康診断等)
  • 安全衛生に関する助言・情報提供・教育

第187号条約「職業上の安全及び健康を促進するための枠組みに関する条約」(2006年)

第187号条約は、労働安全衛生の継続的改善を促進するための国家的枠組みの構築を求める条約です。第155号条約を補完する位置づけにあり、国家安全衛生プログラムの策定・実施・定期的な見直しのサイクルを制度化することを目的としています。

ILOは、これら3つの条約を「労働安全衛生の中核的条約」と位置づけています。

日本のILO条約批准状況と課題

日本は2026年3月時点で、ILO条約を50条約批准しています。しかし、労働安全衛生分野の主要3条約については、以下のような状況です。

条約採択年内容日本の批准
第155号条約1981年職業上の安全及び健康未批准
第161号条約1985年職業衛生機関(産業保健サービス)未批准
第187号条約2006年安全衛生促進枠組み未批准

注目すべき点として、日本は3条約いずれも批准していません。これは、日本の安衛法の制度設計がILO条約の一部規定と完全には合致していないことが理由の一つと考えられています。

未批准の主な背景

日本が第155号条約を批准していない背景には、いくつかの制度的な相違があります。

  • 労働者の作業中止権(第155号条約第13条):同条約は「急迫した重大な危険があると合理的に判断される作業状況から離れる労働者を、不当な結果から保護する」ことを求めています。日本の安衛法には、労働者の作業中止権に関する明示的な規定がありません
  • 安全衛生委員会の構成:条約が求める労使同数の安全衛生委員会の構成と、日本の安全衛生委員会制度に差異があると指摘されています
  • 適用範囲の問題:条約が「すべての経済活動部門」を対象とするのに対し、日本の安衛法は適用除外の範囲が異なります

ただし、批准していないからといって日本の安全衛生水準が低いわけではありません。日本の安衛法は、健康診断制度や作業環境測定制度など、条約が求める水準を超える規定も多く含んでいます。

第155号条約の主要規定と日本の安衛法との対照

ILO第155号条約と日本の安衛法を主要な論点ごとに対照すると、以下のような関係が見えてきます。

国家政策の策定(第155号条約 第4条 ⇔ 安衛法 第6条等)

第155号条約 第4条:加盟国は、労働安全衛生及び作業環境に関する一貫した国家政策を、最も代表的な使用者団体及び労働者団体と協議のうえ策定しなければならない。

日本では、労働安全衛生法第6条に基づき、厚生労働大臣が「労働災害防止計画」を策定しています。現在は第14次労働災害防止計画(2023〜2027年度)が進行中です。労働政策審議会(使用者・労働者・公益の三者構成)での審議を経て策定される点で、条約の趣旨と概ね整合しています。

使用者の義務と労働者の権利(第155号条約 第16〜19条 ⇔ 安衛法 第20〜25条等)

条約は、使用者に対して職場の安全衛生確保義務を課すとともに、労働者の安全衛生への参加と情報へのアクセスを保障しています。

日本の安衛法でも、事業者の安全衛生措置義務(第20〜25条)は詳細に規定されています。一方で、前述の通り労働者の作業中止権については明文規定がなく、ここが大きな相違点です。立ち仕事の現場でも、例えば猛暑環境下での作業において労働者自身が危険を判断して作業を中止できるかどうかは、実務上重要な問題です。

労働者代表との協議(第155号条約 第20条 ⇔ 安衛法 第17〜19条)

条約は、企業レベルでの使用者と労働者代表の間の協力と協議を求めています。

日本の安衛法では、安全委員会(第17条)、衛生委員会(第18条)、安全衛生委員会(第19条)の設置が義務づけられています。一定規模以上の事業場では労使の代表が参加する委員会で安全衛生に関する事項を審議しており、条約の趣旨に沿った制度が整備されています。

産業保健サービス(第161号条約 ⇔ 安衛法 第13条・第66条等)

第161号条約が求める産業保健サービスについて、日本では産業医制度(安衛法第13条)と健康診断制度(安衛法第66条)が対応しています。特に、常時50人以上の労働者を使用する事業場における産業医の選任義務は、国際的にも充実した制度とされています。

2022年:ILO「安全で健康な労働環境」を基本的原則に追加

2022年6月の第110回ILO総会で、「安全で健康な労働環境」が「労働における基本的原則及び権利」に追加されました。これは、ILOの歴史において極めて重要な転換点です。

「基本的原則及び権利」とは

ILOの「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」(1998年採択)は、すべてのILO加盟国が条約の批准・未批准にかかわらず尊重すべき基本的権利を定めたものです。従来は以下の4分野が対象でした。

  1. 結社の自由と団体交渉権の実効的な承認
  2. 強制労働の撤廃
  3. 児童労働の廃止
  4. 雇用・職業における差別の撤廃

2022年の決定により、ここに5つ目として「安全で健康な労働環境」が追加されました。

この決定が持つ意味

この変更により、第155号条約と第187号条約が基本条約(Fundamental Conventions) に格上げされました。基本条約は、ILO加盟国がたとえ批准していなくても、その原則を尊重・促進・実現する義務を負います。

日本にとっては、第155号条約・第187号条約を未批准であっても、その原則の実現に向けた取り組みが国際的に求められることになります。ILOへの定期報告義務も発生し、各国の取り組み状況が国際社会の注目を受ける構図となっています。

立ち仕事の現場に関しても、長時間の立位作業による筋骨格系障害(MSDs:Musculoskeletal Disorders)の予防や、暑熱環境対策などは、「安全で健康な労働環境」の確保という国際的な枠組みの中に位置づけられるテーマです。